4.オホーツク文化の遺産

オホーツク文化は、文化圏が流氷域と重なることから、彼らは「流氷民族」とか「氷海の海獣狩猟民」と言われたり、ヨーロッパで同じ頃活躍したヴァイキングと重ねて「アジアのヴァイキング」と呼ばれていたこともあった。今日の発掘調査等の成果によると、彼らは海を中心とした漁撈生活を基盤として、ク ジラや海獣、陸獣などをとり、そこから得た毛皮などを持って、サハリンやアムール川 流域などの沿海州、あるいは津軽海峡を南下して、奥羽地方の住民との交易を積極的に 行っていった。

オホーツク文化の遺跡から大陸渡来の青銅製の帯飾りや耳環 (じかん)、鐸(たく)、鉾(ほこ)、また日本内地からの蕨手刀(わらびてとう)や 剣、刀子(とうす)などが多数出土することから知ることができ、両者の仲介交易も担っ ていたことがうかがえる。

つまり彼らは狩猟や漁撈を行いながら、大型船で大陸や日本と交易を行っていた交易 民族と言え、活動的でダイナミックな、そしてエキゾチックで国際的な文化を有してい た民族と言える。 しかし彼らは、突然に渡来した時と同じように、若干アイヌ文化に影響を残しながら も、忽然と消えていってしまった謎の多い民族であった。

オホーツク文化の名称は、当時使用されていた土器が「オホーツク土器」とよばれた ことからつけられた。この土器は、表面に縄文がつけられる北海道土着の土器と異なり、特異な文様がつけられている。 

初期のころは「十和田式土器」とよばれ、壺形か鉢形の器型で、口縁部に直径5ミリ 前後の円形の刺突文をめぐらしている。その後は「オホーツク式土器」とよばれ、土器 の表面にへら状の工具で舟形状の刻みをつけた舟形刻文や、土器の表面を爪先でつまん でひねる爪形文、先の細い工具で線をめぐらす沈線文、うどん状の粘土紐を口縁部にめ ぐらしてその上に刻みを付ける擬縄貼付文、ソーメン状の粘土紐をめぐらすソーメン状 貼付文とつづく。それらの形式をまとめて「オホーツク 土器」とよんでいる。

年代的には五世紀ころに始まり、終末が10世紀ころと考えられ、最後のころは擦文文化に一部吸収されて、北海道では消滅してしまうが、サハリンでは10世紀以降もある程度の期間存続している。この「オホーツク土器」は明治時代から注目されてはいたが、その内容が明らかにさ れたのは、元網走郷土博物館長であった米村喜男衛氏の網走市モヨロ貝塚の発見と発掘 ・保存によるところが大きい。

この土器は米村氏により「モヨリ(モヨロ)式土器」と 命名されたが、昭和8年、当時北海道帝国大学助手であった河野広道氏により「オホー ツク式土器」と命名・発表され、一般化していった。

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