5.夢のあとさき その1 〜網走刑務所〜

 明治初期、北海道には各地から多くの受刑者が送り込まれ、樺戸、空知、釧路の各集治監などに収容された。「新北海道史」によると、その主な目的は「囚徒を道路開削などの労役に使役し、北海道開発の基礎事業の伸展を図る」こと。集められた受刑者たちは、樺戸での農地開墾をはじめ、空知では幌内炭山の開発、釧路では硫黄採掘などに酷使された。

 網走刑務所も、草創期から北海道開拓と密接にかかわっている。当時は人口600人ほどの寒村だった網走に釧路監獄署網走囚徒外役所が開設されたのは1890年(明治23年)。受刑者たちは翌年、北海道横断中央道路のうち網走―上川間の開削工事に動員され、過酷な労働で実に約200の死者を出した。「本道囚人労働史上最も残酷な事例」(新北海道史)となったこの道路をはじめ、受刑者が道内に造った道路は、今も幹線として重要な役割を果たしている。

 「南下を狙うロシアに対抗し、北海道に多くの人を入れるのが明治政府の政策だった。道路をはじめ、移民を迎える基盤整備のために、ブルドーザー役を果たしたのが受刑者たち。彼らの労働が、北海道開拓を担った一面は否定できません」と中央学院大 重松一義教授。

 多くの犠牲者を出した道路開削工事が終わった後も、受刑者たちは網走に残った。網走囚徒外役所は、自給自足の農業経営監獄を目指して北海道集治監網走分監として再出発し、1903年(明治36年)に網走監獄として独立する。


 受刑者による農地開墾は、順調に進んだ。網走はもともと肥沃(ひよく)な土地で二見ケ岡で開墾を始めて三年目くらいからは、農産物を監獄だけでは消費できず、街に売りに行ったこともあるという。麦、大豆、ジャガイモといった畑作物のほか、昭和初期には稲作にも成功。「網走刑務所沿革誌」によると、戦後の食糧難の時代には割当量の15倍に上る米を供出し、道知事から感謝状を受けたという。

 1922年(大正11年)、網走刑務所と改称されてからも、受刑者たちは鉄道や飛行場の建設工事などに駆り出され、地域の開発にかかわってきた。

 戦後、北海道は全国の受刑者たちと再び大きなかかわりを持つ。戦災で多くの刑務所が損傷した道外各地から、選ばれた受刑者たちが「北海道開発名誉作業班」として網走など道内の刑務所に移送され、1948年から三年間、道内各地で道路建設、河川改修、植林などに汗を流したのだ。作業班に加わった受刑者は、毎年2013千人。開放的な屋外作業だったが、事故や地域住民とのトラブルもほとんどなく、大きな成果を残した。各地で聞き取り調査した経験のある重松は「地元の人々が、どこでも受刑者に大変感謝していたのが印象的でした」と語る。


 網走市街地の外れ、網走川にかかる鏡橋を渡ると、緑豊かな三眺山を背景に、高いれんが塀に囲まれた網走刑務所が広がる。高倉健主演の映画の影響で、所在地を「網走番外地」と思っている人も多いが、正しくは「網走市字三眺官有無番地」。現在も日本一の農園刑務所で、特産のニポポ人形でも知られている。

 かつての網走刑務所は、長期刑の受刑者が多く、集団脱獄や看守殺傷事件などで暗いイメージがあったのも事実。戦前には、当時の網走町議会が刑務所の名称変更を国会に請願したこともある。しかし、そんな声もやがて消えた。今や「博物館 網走監獄」は年間60万人が入場する有数の観光スポットになり、かつての面影を残す刑務所の巨大な赤れんが門の前にも、観光客の姿が絶えない。

 開拓に大きな役割を果たした刑務所は、今も観光という思いがけない形で、北海道に貢献を続けている。(敬称略)