明治5年に新橋・横浜間で日本で初めての鉄道が開通してから遅れること8年、北海道内でも明治13年に札幌・手宮間で幌内鉄道の建設が始まりました。


 オホーツク地方で鉄道建設の話が具体化したのはそれよりさらに遅く、明治29年に北海道鉄道敷設法が公布されてからのことです。オホーツク地方の基幹鉄道となった名寄線が開通したのが大正10年で、日本初の鉄道から既に50年遅れており、道東の鉄道開発がいかに遅れていたかを物語っています。



オホーツクの鉄道資料館・博物館リスト

池田から網走間の開通後、続く大正5年には湧別線(網走〜湧別間)、10年に名寄線(名寄〜湧別間)、12年には渚滑線(渚滑〜滝上間)、14年には相生線(美幌〜北見相生間)が相次いで開通して、オホーツク地方の鉄道網の整備は急速に進みました。
 名寄線の開通によって紋別を含む中部オホーツク地方は飛躍的な発展をとげ、開発は急速に進むことになります。

 戦後の混乱がようやくおさまり、日本がめざましい経済発展を遂げる昭和30年代になると、鉄道は従来とは異なる経営を迫られるようになりました。それまでの鉄道は国策遂行上から、いわば採算面を無視した輸送を行ってきたのです。しかも貨物輸送に過度に傾注され、旅客はいわばおまけでした。


 しかし、道路整備が進み自動車輸送が貨物輸送に果たす役割が増大するにつれて、旅客サービスの向上とスピードアップが求められるようになりました。昭和30年当時の名寄線は貨物と客車が連結された貨客列車で運行され、このため貨物の積み降ろしの時間がかかり、名寄と遠軽の間を行くのに7時間もかかっていたのです。

 これを改善するため、昭和30年12月よりディーゼルカーが投入されました。当初は経費を節約するため自動車用エンジンを搭載した単車の車両、いわゆるレールバスででした。

 このレールバスは1日当たり、上り(遠軽→名寄)下り(名寄→遠軽)合わせて25本が運行された。さらに名寄線上には昭和30年12月に一本松、31年5月には弘道、34年11月には潮見に停留所(仮乗降場)が設けられた。渚滑線には16号線、上東、奥東の停留所が30年12月に設けられ、31年5月には元西にも設置されて利用者の便を図りました。


あと一歩・・・雄武〜北見枝幸間が開通するとオホーツク海沿岸は1本の鉄路で結ばれるところだった。しかし、1980年夢は脆くも崩れ、以降、1989年までにオホーツク沿岸からは釧網本線を除くすべての鉄路が「原野」に帰っていったのです。

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