6.流氷を文学する

千葉県佐倉市にある敬愛大教授で地理学が専門の中村圭三にとって、12年前の驚きが今も新鮮という。紋別の道都大助教授だった1987年夏、知人や学生らと「流氷と市民生活に関する生活実態調査」を行い紋別市民約500人からのアンケートの回答をまとめた。

質問には流氷についてのものもあり、「どんなイメージを抱いているか」には「とても明るい」・「わりと明るい」イメージが計45.4%で、「わりと暗い」・「とても暗い」の計23.1%を圧倒。「愛着を感じるか」も「強く」・「わりと感じる」が計57.2%で過半が好感を持っていることが分かった。「漁ができない、寒さが増すなど、街では悪口ばかり聞かされていたので意外だった」

 1900年(明治33年)2月17日の北海道毎日新聞(北海道新聞の前身)にあらまし次のような記事が出ている。
 宗谷管内の枝幸では折からの砂金ブームで採取人が多数入り込んでいるため越冬米が予想より早く底をついた。あわてた役場が小樽の船主に輸送してくれるよう電報を打ったが、流氷を恐れて引き受け手はない。見かねた船主のひとりが船を差し向け、流氷を排しつつ6日がかりで14日に米800俵を届けてくれた。これを徳として住民一同は感謝の電報を打った。

 内陸の交通網が未発達で海路だけが頼りだったから、一刻も早く米が欲しいオホーツク沿岸の住民にとって流氷は邪魔な存在だった。白魔。歓迎されざる客。マイナスメージはその後も長く抱かれ続けるわけだが、沿岸住民以外にも流氷という存在が意識されるのはいつごろからだろうか。


 例えば芸術の分野ではどうか。歳時記の類によると「流氷」の俳句の季語としての歴史は浅い。京都や東京の自然の移ろいを基にした歳時記の世界では、もともと川面などを流れる薄氷が「氷流るる」という季語でとらえられていたらしい。「流氷」が注目されるきっかけが三二年(昭和七年)刊の山口誓子の句集「凍港」に収められた一句だったことは俳人の間ではよく知られている。大正時代に樺太で少年時代を過ごした作者が宗谷海峡の連絡船で眺めた光景を詠んだ。

流氷や宗谷の門波(となみ)荒れやまず

「道内の俳人はもっと早くから作品にしていたはずだが、これほどの決定的なものがなかった」と札幌在住の句誌「にれ」主宰の木村敏男。「『流氷』はこの作品で全国的になったが、本道では好んで詠まれる『海明け』の方はまだ中央の歳時記に季語として採られていない」

 自然科学の分野で存在が意識されるのは比較的早かったようだ。網走地方気象台が流氷の観測を始めたのが1892年(明治25年)の元日からだから、記録の蓄積はすでに110年近い。1912年ごろの新聞には大まかな全般的予想、各地の「初来」と「終去」の平年日の記事もみられ、関係者には役立ったことだろう。

1930年2月には旧海軍の砕氷艦「大泊」が根室の花咲港からオホーツク海の流氷原に入り、約1カ月にわたり調査を行った。海上からの流氷の調査・研究の先駆けで、断続的に太平洋戦争が始まる1941年まで続けられている(田畑忠司著「流氷」北海道新聞社刊による)。

最近は観光面でも脚光を浴び、集客力を発揮。網走支庁管内観光連盟専務理事の平元千也は「10年ほど前は3、40万人程度だった管内の冬場の観光客が、昨年は180万人に増えた。日本ではここでしか見られない観光資源だから今後も期待できる」という。

オホーツク海の流氷の総量は約9800億立方メートルで、東京ドーム80万杯分。地球の温暖化で21世紀の半ばにオホーツク海の水温が4度上昇し、流氷は消滅するとの見通しもあるそうだが、20世紀は流氷というものの「存在」の発見から「価値」の発見へと意識の変換がみられた百年だったといえないだろうか。

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