5.夢のあとさき その2 〜インディギルカ号遭難〜

1939年(昭和14年)12月12日の未明、宗谷管内猿払村浜鬼志別のある漁家の主人は表戸をたたく音に飛び起きた。前日からの吹雪のうなりにまじって、せっぱ詰まって響く。堅く閉ざした戸を開けると、雪氷まみれの数人の大男が転がり込んできた。言葉が通じないまま彼らの先導で浜に出た主人が吹雪越しに見たのは、沖の浅瀬に横倒しになった黒く大きい船。船腹上に群れる人たちが大声で何か叫んでいる。外国船が遭難しているのは明らかだった。

 この船はソ連(当時)のインディギルカ号2690総トン)。船名は北極海に注ぐ東シベリアの大河の名に由来する。地元では近隣の警防団員、青年団員ら500人が動員される一方、鬼志別にある村役場や稚内署に応援を要請。翌13日未明になってようやく本格的な救助活動が始まる。同日中に船長ら乗組員や女性や子どもを含む402人を救助したが、全長79m、幅15mほどの船内にまだ人がいることが分かり、16日に27人を救出した。生存者は計429人。犠牲者は推定700人余り、うち約400体の漂着遺体が浜で荼毘に付された。

 当時58歳の船長の証言では、乗っていたのは乗組員が39人、漁期を終えて帰郷する水産加工場の労働者とその家族ら約1100人。8日朝にオホーツク北岸のナガエボを出港、宗谷海峡を抜けてウラジオストクへ向かう途中で吹雪のため視界が悪化し、宗谷岬の灯台の灯を二丈岩(現ロシア領)のものと誤認。針路を南に切り、12日午前2:20分ごろ浜鬼志別の沖約1.5キロの岩(トド岩)に激突、横転して浅瀬に乗り上げた。
 生存者は小樽からソ連船で同年末までにウラジオストクへ、遺骨も翌40年1月に小樽から無言の帰国。船体は日本の商社に払い下げられ、戦前の日本では最大級の海難は一件落着した。


 33回忌の年の1971年秋に現場近くの海岸段丘上にソ連の協力もあって慰霊碑が建立された。毎年夏に供養が営まれ、1986年には遭難当時3歳で命拾いしたロシア人男性も参列している。

 日本の関係者が気づいていたかどうか、この遭難にはなぞがいくつかあった。例えば船長の言動。乗船者の数を概数で証言しているので正確な犠牲者数が不明で、まだ生存者がいるのに船を離れている。ソ連側からは外交ルートを通して「遺体は収容するに及ばず。遺品も焼却処分に」といってきていたともいう。北大のスラブ研究センター教授で現在は図書館長でもある原暉之(てるゆき)氏が93年刊の著書「インディギルカ号の悲劇」(筑摩書房)でこれらのなぞを解き明かし、同船に関心を持つ人たちに衝撃を与えたことは記憶に新しい。


 一管本部によると最近10年ほどの本道周辺での海難は年150隻、死者・行方不明は同20−30人。ある港町では底引き漁船が1カ月足らずの間に3隻遭難、計43人の死者・行方不明を出したこともある1960年代あたりに比べて大幅に減っている。背景にあるのはレーダーなどは当たり前、人工衛星で船の位置を確認し、ファクスで天気図を入手するといった装備の近代化、200カイリ規制による出漁船そのものの減少など。

 「生存者の証言から西欧では第二次大戦直後から知られていたことだが、乗客の大半が実は強制収容所の刑期を終えたか再審を受ける囚人だった」と原氏はいう。インディギルカ号には1990年ごろに関心を持ち、情報公開が盛んだったソ連・ロシアで資料に当たるなどして実体を明らかにした。

当時はオホーツク北岸のマガダンの後背地に金鉱が開発され、政治犯らが強制労働のために宗谷海峡経由で送り込まれていた。乗船時に囚人の数は正確に数えられず、遭難現場では監視の兵が船倉から出ようとした囚人に発砲したらしく、ロシアでは死者・行方不明が1000人以上と推定されているという。船長は裁判で銃殺刑を宣告されていた。

 「囚人でも、もちろん無心で助けていた」と当時地元で救助にあたった人々。西欧に比べて日本では人権問題に関心が低いことのひとつの現れと言われるが、インディギルカ号はわれわれにとって人類愛の象徴であると同時に人権意識の高さをはかるものさしでもある。北海道外に住む方がこのことを果たして知っているのだろうか?

| << Back | Menu | Next >> |

1999-2000 Copyright (C) Y's System Japan. All Rights Reserved.